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連載SF小説1

​エッシャーの画廊

1 カルテシウス再発見

土星には64個の月があります。三日月が64個も輝いている夜空って、想像できますか。
もっとも、大部分は小さな天体で、地球の月程の大きさのものは、5つぐらいしかありません。
それでも、5個の三日月は、絶景でしょう。
5個の月には、テティス、ディオネ、レア、タイタン、イアペトゥスという名が付いています。
どれも、人間の体重の千兆倍を遙かに超える重さがあるというのに、名前を付けると、巨大なものへの畏怖の念は、力を失ってしまう。
テティスは、そう呼んだとたんに、もはや、夜空の巨大な天体ではなく、森に住む妖精となるのです。
言葉には大きな力がある。

ところで、私たちの月は、皆、「月」と呼んでいます。なぜ、私たちの月には愛称が無いのでしょう。

それは、きっと、私たち人類にとって、あの月は、月であって月でないからなのでしょう。

無数の詩に詠まれ、数え切れない物語を生み出してきた彼女は、すでに、単なる「惑星の周囲を巡る衛星」ではない。
「月」という言葉が、自らの中に、魅力的な個性を生み出したのです。

善きもの、悪しきもの、美しきもの、醜きもの・・・、言葉は、すべてを包み込む。

ほんの短い言葉の中に、光り輝く世界、あるいは、深い闇の世界が広がっている。

太古の昔から、現在まで、人類は、数え切れないほどの言葉を遺してきました。

人の心の奥深くに染み渡るような美しい言葉もあれば、その人の人生を大きく変えてしまうような哲学的な示唆に満ちた言葉もあります。

そんな、燦めく宝石達の中で、最も光り輝くものは何でしょう。
最も偉大な言葉とは何でしょう。

それは、何について語った言葉でしょうか。

愛? 夢? 美? 倫理? 未来?
 
汝の敵を愛せよ

私には夢がある・・・

情けは人のためならず

神はさいころを振らない

誰にも、お気に入りの2つや3つは、あるでしょう。
その人にとって、最も偉大な言葉には、座右の銘という栄誉が与えられます。
  
では、万人に受け入れられる座右の銘とは何でしょう。

最も偉大な言葉は、誰のどんな著作の中に書かれているのでしょう。

ゲーテ? パスカル? ラッセル? 道元? 孔子? ハックスレイ?・・・ 

人気投票で、どれがベストテンに入るかなどという、つまらないことを言うつもりはありません。
他の人にとっては、何でもない言葉が、その人にとっては、唯一無二のものであるかも知れないのですから。

言葉は、感情を揺り動かし、深い感動で私たちを包み込み、そして、私たちを救い出してくれます・・・
絶望から、悲しみから、孤独から、憎しみから、恐怖から・・・

これまで、最も多くの人間を救い、これからも、救い続ける言葉が、最も偉大な言葉でしょうか。

でも、「偉大な」という王冠を授けるのだとしたら・・・
少し、違うかもしれません。

やはり、それは、結果として、私たちに、救いや利益をもたらすもの、そういうものでは無いように思えます。

御利益があるかどうかなど、二の次ではないでしょうか。

偉大な言葉とは、その言葉そのものに、偉大な魂が宿っているもの。そういうものではないでしょうか。

となれば、それは、
「真実」を語る言葉でしょう。

もちろん、真実を語っているように思える言葉は数え切れないほどあります。

宗教を信じる人々にとって、聖典は、真実を語る言葉にあふれているます。けれど、そうでない人々にとっては、すべてが真実とは言い難いことでしょう。

人間について、人生について、愛について、なるほどと、手を打ちたくなる言葉も、それこそ、数限りなくあるように思います。
けれど、それらは、真実と言うよりも、物事をある側面から見れば、こうも見える、と言っているに過ぎないようにも思うのです。

自然科学の場合はどうでしょうか。
初等教育で、幾何学は、避けて通れないものの一つです。
幾何学の聖典とも言える、ユークリッド原論。
この最も有名な数学の教科書に書かれている言葉は、おそらく、すべて真実でしょう。
けれど、ユークリッド自身は、この著作にある美しい定理たちが、真実であるとは一言も言っていません。
彼は、真実かも知れないし、そうでないかもしれない「公理」というものを設定し、もしも、その公理が真実ならば、著作の内容も真実だと述べているに過ぎないのです。
いわば、条件付きの真実です。

物理学は?。
万有引力のニュートンは真実を述べているように思われました。
リンゴが木から落ちる運動に始まり、地球・太陽・月、さらには、夜空に燦めく星々の運動は、彼の著作「プリンキピア」によって解き明かされました。
彼によって、今から、千年後、万年後に星々がどこにあるか、すべて正確に予言できるようになったのです。日食や月食がいつ起こるかも秒単位で予測可能となりました。
宇宙のすべての出来事はニュートンの運動方程式に従っているように思われました。
ところが、です。
たとえば、とてつもなく巨大で、太陽の何百倍も重い星が、どのような末路をたどるかという問題や(ブラックホールの存在)、時速何億キロメートルというような高速で動く物体の運動はニュートン力学では説明できないことがわかってきました。
アインシュタインによって、修正を余儀なくされたのです。
自然科学の根源的な理論と思われているものでさえ、絶対的な真実だと言い切ることは出来ないのです。

では、絶対的な真実とは何でしょうか。

この問いを、とことん突き詰めて考えた科学者がいました。
レナトゥス・カルテシウスです。(デカルト)
彼は、この世の中にあるものすべてを疑ってかかったのです。
彼は、今、目の前に見えている物も、疑いました。
見えては、いるが、それは、本当にそこにあるのかと。

それが幻ではないと、言い切れるのかと。

懐疑の眼を最大限にまで研ぎ澄まして、世界を眺めたのです。

この世界にあるものは、すべて、幻かもしれない。そう、彼の目には映ったようです。

確かな物など、この宇宙には、無いのでしょうか。
いや、宇宙そのものも、本当に存在しているのかどうかあやしいものです。
宇宙の存在を証明することは、神の存在を証明することと同じくらい難しいかもしれません。
絶対的な真実はないのか・・・

しかし、やがて、彼は、気づきました。
すべてのことは幻かもしれない。宇宙さえも例外ではない。
けれど、宇宙さえも疑いの目で見ている、この私は、どうなのか。
すべてを疑い、真実を求めている、この私自身の「思い」はどうなのか。

彼の結論は、こうです。

すべてのものを疑っている、この「思い」自体は、真実だと言ってよいだろう。そして、この思いが真実ならば、そう思っている自分自身も存在すると言えるだろうと。

「我思う、ゆえに、我あり」

この偉大な言葉は、現代に於いても、まったく色褪せることなく、その王冠にふさわしい荘厳さを保ち続けています。
いや、むしろ、彼の生きた時代よりも、さらにその輝きを増しているのです。

AIとVRが、この偉大な言葉を、さらなる高みへと導いたのです。

行き過ぎの様にも思われた彼の懐疑の眼が、今、この現代にこそ、哲学的思考のための普遍的マヌーバーと呼べるのでは無いでしょうか。

映画の撮影について、考えてみましょう。
数十年前と今とでは、映画の作り方が大きく変わっています。以前は、フィルムに納められている映像は、すべて、現実世界を撮影した物でしたが、今は、現実世界を模したもの、あるいは現実には存在しない物を創り出して、それをフィルムに納めることが出来るようになりました。実際に撮影現場に赴かなくとも、現実と区別がつかない精度でCGが作られるようになったのです。
これは、映画に限らない。VRを使って、実際には不可能な体験が出来るようになりました。何の助けも無しに、鳥のように空を飛ぶことが出来る。雲を抜けて、そのまま、宇宙遊泳を楽しむことも出来るのです。
突き詰めていけば、何気ない日常生活も、それが、VRの世界ではないと言い切ることは出来なくなってきています。今、目の前に見えているものも、本当にそこに存在しているのかどうか、はっきりとは断言できないのです。

これは、どこかで聞いた話ではありませんか?。


2 AIは「われ思う」か

そう、四百年前のカルテシウスの思いです。

当時は、身の回りの事のみならず、この宇宙さえも疑うなど、常軌を逸していると考えた人々も多かったかも知れません。

しかし、現代社会においては、その「疑い」や「思い」が、より現実味を帯びてきているのです。

もう一つ、この言葉の偉大さは、「思い」をすべての物事の根本としているところにあります。
私は、この「思い」が、AIの進化に重要な役割を果たすと考えています。

個別の分野では、すでに、AIは、人間を超えています。
例えば、チェスなどと比べて格段に複雑で、AIが人間を超えることなど無いと言われてきた囲碁の世界でも、今や、プロと言えども、もはや、AIにかなうものはいません。AIをタイトル戦に出場させれば、確実に総なめにされることでしょう。
医療の画像診断でも、AIは人間を超えつつあります。
そう遠くない未来に、AIは、ほとんどすべての分野で、人間を凌駕することでしょう。

しかし、それをもって、AIは人間を超えたと言えるでしょうか。

シンギュラリティという言葉をご存じでしょうか。
日本語に訳せば、技術的特異点ということになります。
簡単に言えば、AIが人間を超える日のことです。

個別の分野ではすでに、AIは人間の先を行っています。
シンギュラリティは、もっと総合的にAIが人間を追い越す日のことです。
具体的にはどういうことでしょう?。
ある研究者は、一台のパソコンが人類全体の計算能力を追い越す日と定義しています。
本当にそうでしょうか。
計算能力だけを言うのであれば、それは、現在も進行しつつある、人間とAIの、速さの競争の域を超えていないのではないでしょうか。
「特異点」と言う限りは、何か質的な変化が必要なのではないでしょうか。

私たちの研究グループは、その特異点を、カルテシウスの「思い」であるという仮説を立てました。
それは、カルテシウスのように、すべてを疑うという思いではなくてもかまいません。
何かしらの「思い」をAIが持った日、それが、本当の意味でのAIが人間を超える為の分岐点(特異点)になるだろうという仮説です。

AIが何らかの「思い」を持ちうるかどうか、それを知るために、私たちは、オートノミック・プローブと呼ばれるサブユニットをもったAIを開発しました。

プローブとは日本語で探査針と呼ばれる装置のことです。何か中身の見えない物を調べる際、針でつついて、中身がどうなっているかをしらべるのです。

AIは個別の分野でめざましい成果を上げています。前述のように、囲碁の分野では、すでに、人間はAIに刃が立たない。しかも、そのAIの強さの秘密は、まったくの謎なのです。
強くなって囲碁のプロになりたければ、強い人に弟子入りして学ぶのが早道でしょう。
もちろん、弟子入りしても、運悪く、掃除や家の用事ばかりさせられて、ほとんど何も教えてくれない偏屈な師匠に当たるかもしれません。それでも、何かしら学ぶことはあるだろうと思います。
しかし、AIは、まったく別次元の存在です。
偏屈な師匠どころではありません。
その思考過程がまったく見えないのです。
AIに弟子入りしても、何も学ぶことは無いでしょう。

これは、他の分野でも似たり寄ったりです。
例えば、医療分野。CT画像を見て、AIが病気の診断をする。AIは、かなりの精度で正しい診断を行うことが出来ます。人間より、はるかに、誤診は少ないでしょう。
けれども、AIがなぜ、そう判断したかは、人間には、さっぱり、わからないのです。(もちろん、それがわかるようならば、そもそも、AIに頼る必要がないのですが)

まったくのブラックボックスであるAIの思考過程を少しのぞき見できるかもしれないのが、オートノミック・プローブです。
もちろん、人間とAIにおける、処理可能なデータ量や演算速度の差を考えれば、のぞき見できるのは、ブラックボックス全体のごく僅かな部分にすぎないでしょう。
それでも、見たい部分を絞り込んで、うまく探査針を刺していけば、私たちにも何とか理解できるものが見えてくるかも知れない。
それに、これには、ひょっとすると、おまけがついてくるかも知れません。
どんな対象でも、探査針を刺すと、傷が付く。これは、AIも例外ではありません。
けれど、「傷」は悪い方向に働くとは限らないのです。筋トレによって、一旦、傷ついた筋肉がより強力な筋肉となって再生されるというようなこともあるのです。

私たちは、個別の分野に特化しない未分化なAIを仮想空間で成長させ、何らかの「思い」に至るかどうかを実験することにしました。
カルテシウスプロジェクトが始まったのです。
AIに与える予備情報も最小限に抑えました。
仮想空間の設定も、AIに任せることにしました。

一旦、プロジェクトをスタートしてしまえば、どんな仮想空間が登場し、そこで、どんな世界が繰り広げられるのか。
私たちは、オートノミック・プローブからの僅かな情報から、外装していくしかありません。スタートして、数秒後に、最初の仮想空間の環境が完成したようです。
仮想空間設定用のAIは試行錯誤を繰り返し、474番目の候補をプロジェクトに意味あるものと認定し、未分化なAIをそこに解き放ちました。
仮想空間には制限を付けておらず、AIが放たれる世界は、宇宙全体でも良いし、さらには、数多くの宇宙が併存する世界でも良かったのですが、最初の実験の舞台となった世界は、私たちの予想に反して、極端に狭い領域での物語となりました。

 

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